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 ←エピソード:クスフィスの墓参り →エピソード:大いなる酩酊
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「小説」
チェルノボグ

エピソード:春風抄

 ←エピソード:クスフィスの墓参り →エピソード:大いなる酩酊
水晶砂漠に、風が吹く。


 夢を見ている。
 ふと、ミガはそんなことを思った。だって、目の前にいるかつての自分の番いは、とうの昔に死んでいるのだから。その番いの名前はカルハと言う。可憐な桜のアルラウネである。
 月のよい晩のことである。カルハはまるで生きているみたいに桜並木の中に立っていた。ミガには気づいていないのかも知れない。桜を見上げている。チェルノボグで桜が見れる場所なんて西の果ての桜花遺跡しかないから、ああ、自分もそこにいるのだなと、ミガはごくごく自然に諒解した。
 カルハの美しさはまるで衰えていなかった。或いはそれは、ミガの記憶が数十年前から色褪せていない証拠であったかも知れない。服屋で買ったお気に入りのピンクのワンピースを着ている。その色合いはとても見事に七分咲きの桜を再現していた。風が吹く。カルハはまるで桜の花びらが散るようにミガを見た。そしてすたすたと歩いて来る。
「どうしてる?」
 ミガの前に立って、頭一つ小さいかつての番いは問う。
「座ろう」
 誤魔化すように言ったミガの提案に、可憐なアルラウネは頷き、二人して座り心地のよさそうな桜の木の下に坐した。ワンピースから伸びるカルハの足は素足である。ただ、両足に桜玉のアンクレットをつけているのが可愛らしい。ペディキュアを塗ったように、足爪は真珠のような、桜花のような、不思議な色彩を持っていた。それはミガの無骨な手を握ろうと伸ばした手も同様だった。
「ねえ、今、貴女は幸せ?」
 随分無邪気に聞いてくれる。かつての思い人、今の追想人にそう言われて、頷けるほどにミガは図太くはないのだ。
「分からないな」
 言って、手をぎゅっと握る。それはかつてこの番いが意思疎通をする時に使っていた一つの約束事だった。カルハはミガの顔を覗き込んだ。美しい顔立ちだと、ミガは何度思ったか知れない。丸こい顔であるが、それはかえって彼女の愛らしさを際立たせていた。唇は薄紅色をしていて、それがただ一つこの女性の顔立ちの中で大人らしさを保っている。すっきりした目鼻立ちはそのまま彫像にすれば永劫保たれる秘宝となるだろう。目はくりくりしていて子どもっぽい。悪戯っぽい表情を浮かべているのが余計にそれらしい。瞳の色はエメラルドである。彼女の眼窩にエメラルドと水晶の塊が入っているのだと言われても、そのまま信じられそうなほどに、それは一つの芸術品としての美的調和を保っていた。桜の枝が伸びる耳は、下半分だけが人間のそれらしくなっている。結構な福耳で、この耳たぶに触った時にミガはいつでも幸せを感じ取っていたことを思い出して、少し暗鬱な気分になった。
「ねえ、どうやったらいい?」
 カルハが問う。
「何を、どうやるんだ」
 ミガが問い返す。
「貴女を幸せにする為の、何かを」
 哲学病にかかって死んでしまったアルラウネは実に深刻そうな顔になって言う。彼女自身と、彼女とミガの間に出来た十六人の子どもは皆、墓に入ってしまっている。そうして、一家で生きている唯一のものであるミガに対して何か出来ることがないかと、可憐なアルラウネは思っているらしい。或いはこれは夢ではなく、死者が生者に語りかけているのかも知れない。想われ人は、想い人の夢を見るのだ。
「ずっと、一人になってからずっと、何にもすがらずに生きて来た」
 ミガは寂しく言う。
「けど、それは、どうなんだろうな、カルハ。お前から見たら、それは不幸せなことなのか?」
 カルハは何かを言う前に、ミガの手を強く握った。
「何にも寄りかかれないことは、きっとつらいでしょう。私は、貴女がいたから、幸福だった。なのに、なのに死んでしまって、貴女を置いて、何かしてあげられることもなくって、どうすれば、私は貴女に、昔のような輝く日々を取り戻してあげられるのかなって、思って」
 幸せの正体を掴もうとするカルハの言葉は、確かに哲学病で死んだものの言葉らしかった。頭を使うことに慣れていないミガは、何とかしてこの、今にも泣きそうになっているかつての番いにかける言葉を探そうとしていた。けれど、言葉はどれだけ探しても出て来なかった。桜吹雪が舞う。沈黙が舞い降りる。
「昔、私がまだ健康だった頃」
 カルハが沈黙を破る。
「私たち、随分向う見ずに生きていたよね。十六人の子どもたち、みんな今では私の所にいるけれど、あの頃は何をしていても輝いていた。なのに今の貴女は、侘しいばっかり」
 そうしてミガと繋いだ手を放すと、カルハは立ち上がった。
「ねえ、どうして若い人は先も見ないで走れるの? どうして大人たちは先が見えても止まるの? 本当は、分かっているんでしょう?」
 ハッとして、ミガが顔を上げる。そして、俯く。
「そうなのかも知れない」
 けれど、かつて愛し合った人にそれを告げるのは、たとえこれが夢だとしても、あんまり惨酷に過ぎる気がして、言い淀んでしまった。
「どうすればいいのかなんて、私も、貴女も、きっと分かっているのに。なのに二人が二人とも苦しんでる。見えている場所に、歩みを進めることが怖いから」
 カルハの言葉は、次々にミガの胸を抉って行った。分かっているのだ。いつか来る、ミガの死ぬその日まで、カルハの記憶を持ったまま、新しい生を生きていけばいい。それだけのことで、しかもミガにはそれだけの当てがある。なのに、それを選ぶことはカルハを裏切るような気持ちがして、出来ない。だからきっと、ミガの苦しみは優しさと紙一重。
「カルハは、それでいいのか……?」
 エメラルドの目を見られないまま、ミガは酷くおぼろげに問う。
「貴女に、一つだけ、証を上げる。それから先はきっと、私にはどうしようもないことだから」
 カルハは軽快な歩みで一本の枝垂れ桜の下へと進んで行く。彼女が何をしようとしているのか、ミガは鈍いなりに悟っていた。
「寂しいな」
 その背中を見ながら、人虎は呟く。
「寂しいよ。今すぐにでも、お前の所に行ってしまいたいくらいに、私は……」
「それ以上は、めっ」
 弱気な言葉を振りほどくように、カルハは強い調子で言う。いつか来るその日まで、ミガに自分の人生を生きて行って欲しい、それがカルハの願いだった。だから、自分の両手の爪を一枚一枚剥がして、桜の木の下に埋めていく。
「血が滲むよ」
 ミガは思わずそう言って、あまりにも場違いな台詞だったなと、後悔した。
「死者にはね、痛みを感じることも許されないの。でも、見ていて痛々しいかしら。だけど、こうすれば、ほら」
 カルハが爪を埋め終えて、指の先を撫でると、それだけで手についた汚穢も、血も、消えて、元の通り桜真珠の爪が揃ってしまった。けれど、それは確かに悲しいことだった。何となれば、カルハの死を再確認するような行為だったのだから。
「これで、貴女は先へと歩き出せる。筈、かな」
 その手を腰の後ろで組みながら、カルハは再びミガの隣に座った。ミガの方では、変わり切ってしまったかつての番いを見ることが出来ないでいた。死者を墓場に置いて自分の生を生きていくことは、何か後ろめたい心を感じるものであった。自分の生、それを生きていけば、ミガもいつか誰かと再び番うだろう。実の所、その相手の顔だってミガの脳内には胚胎しているのだ。けれど、それはカルハに申し訳が立たないという考えが、ミガの言葉を迷わせた。けれど、それを断ち切る為に、今、カルハは何かを桜の木の下に埋めたのだ。それは『死者の贈り物』に違いなかった。何か、カルハの生きた、そして二人が愛し合った証の宝石が、この死者からのプレゼントであったのだ。
「きっと、受け取ってね」
 優しい手つきでミガの肩を撫でながら、カルハは言う。彼女の方ではミガが誰かと番うことに対して悲観的になることなど何もない。それはミガが自分を傍らに置きながら、新たな一生を始めて行く合図に他ならないのだから。
「進めるかな」
 まるで迷子になった子どものような心細さで、ミガは問う。
「大人だって、向こう見ずに走ったっていいじゃない」
 カルハは慰めるように言う。ミガは深刻な表情で、さっきカルハが爪を埋めた場所を見ていた。新しい一生への助走。
「永遠に続けばいいのにな。二人の恋も、輝いていた日々も」
「けれど、私はもう死んじゃった。でも、恋の証はきっと貴女に届くから。そうすれば、もう一度貴女の人生は輝ける。あの時の、前なんか少しも見ない走り方を、もう一度貴女は知るのでしょう。それは、アドライア様の言葉を借りれば、とってもチャーミングなことよ」
 尊敬する大賢者の言葉を使いつつ、カルハは優しくミガの頭を撫でてやった。ミガの方ではこの自分より少しだけ年上のかつての番いのぬくもりが嬉しくって、しなだれかかった。そしてそのまま、カルハの腿に頭を乗せた。子どものように。そして見上げたカルハの表情は、かつてミガに見せていた乙女のそれではない、既に幾つもの重大事を過ぎ去って成長し切った慈母のそれだった。
「きっと、受け取るよ。だから今は、少しだけでいい。情けないかも知れないけど、それでもいい。カルハを近くに感じていたい。だから、このまま、少しだけ、眠らせてくれないか」
 子どもが母親にそうするように、ミガはカルハに甘えた。カルハは少し苦笑らしく笑ったが、すぐに「いいよ」と言ってくれた。伝わるぬくもりは死者のそれとは思えぬほどに暖かかった。桜に体温があったらこういう具合だろう。そしてカルハはミガの頭を撫でてくれた。掌のぬくもりが愛しくて、この期に及んでまだかつての番いにすがる自分が情けなくて、泣きそうになるのをひたすらにこらえていた。桜の香りが鼻を突く。懐かしい匂い。それは何十、何百と繰り返された二人の蜜事の度にミガが味わっていた蒸れた花弁の香りに等しく、為にミガの涙腺は決壊したのである。
「あいつらも、達者でやってるかな」
 ミガが、涙声で問う。子どもたちのことである。
「うん。みんな、貴女のことを見守ってるよ」
「そうか。カルハが一緒なら、大丈夫なんだろうな」
「ええ。墓の中で、みんな仲良くやってるわ」
 だからミガは前を向け、ということである。安息を覚えながら、同時にまた、何かの欠落感を覚えながら、ミガは微睡み出した。何か、一つだけ、足りない気がする。けれど伝わるぬくもりはあまりにも優し過ぎて、それに抱かれて眠りに就いた。揺籃の溶暗に落ちる間際、カルハが何かを言うのが聞こえた。
 りゅうりゅうと春風が吹く。夢が覚める。
ウロ家の中、そこには誰もいなかった。
 果たしてこれは本当に夢だったんだろうか、と、ミガは起き上がりながら思惟した。もしかすると霊夢の類なのかも知れないが、頭がよくない彼女にそれを判断する術などあろう筈もなかった。けれど、夢にしては随分カルハがカルハらしいことを言っていた気がする。番いと死に別れてから数十年経つが、ミガは未だにカルハを夢に見る。しかし、それは往々にして断片的な映像で、今朝みたいに何かを話すことなんて全然なかった。だからミガは夢の中で見た桜花遺跡に行くべきかどうかを迷ったのである。半ば恰好つけで受け取ると言ったが、ずっと桜の咲き続けている風景のかわりばえしない桜花遺跡で何かを探すのは相当な一大事であった。けれど、行かねばならないという気もどこかにあった。それを考えながら、ミガは朝の日課を開始したのである。
『火置き匣』を取り出して中に既に熱を失った『火種石』と『光源石』を入れる。そのまま外に出て自宅にしている木の隣にある岩屋の店舗を確認する。肉の在庫はかなり減っていて、北の共同倉庫から持って来なくては今日の仕事が成り立たない。岩屋の奥から肉を運ぶ為のもっこ橇を取り出す。集落の北にある共同倉庫から在庫をとって来てから、酋長フィトリアの居城で火を貰う計算である。『圧縮氷』はそれが済んでからとりに行くことにした。出かける前に大樽に半分ほど残っていた水を一息に飲み干す。
 既に死せる愛した人の夢を見た朝も、人は水を飲むのだ。
 そうして北に向かって進んで行くミガの頭の中はまるで経文が思い切り響く伽藍堂のようになっていた。夢の中で聞いたカルハの言葉がリフレインする。「ねえ、今、貴女は幸せ?」「貴女を幸せにする為の、何かを」「ねえ、どうして若い人は先も見ないで走れるの? どうして大人たちは先が見えても止まるの? 本当は、分かっているんでしょう?」「どうすればいいのかなんて、私も、貴女も、きっと分かっているのに。なのに二人が二人とも苦しんでる。見えている場所に、歩みを進めることが怖いから」「きっと、受け取ってね」「大人だって、向う見ずに走ったっていいじゃない」……そして、その答え。もう一つ、伝えそびれた一言。糸がもつれたように、思考がまとまらない。心がそぞろになる。それでも日々の営みをせねばならない。それは大いなる不条理。ミガは、愛している人との別れの夢を見たその日に生活をする、その行為に何か後ろめたいものを感じていた。
 心が慌てながらも、肉屋は自分の務めを果たすべく北の共同倉庫に辿り着いた。まだ朝も早いというのに倉庫番のネムコは入り口の脇でぼんやりしている。それはもう何も考えてないのが丸分かりなほどに。こいつみたいに鈍感になれたらどれだけいいか……などと考えながらミガは「入るぞ」と倉庫番に一声かけて、中に入って行った。自分に割り当てられた倉庫を覗くと、悪いことに、鶏肉の在庫が切れていた。この集落の商売人の在庫管理と来たら素晴らしく適当で、ものがなくなるまで補充したりしないのである。しかも鶏肉と来たらミガの肉屋の名物であるゴート揚げというから揚げの材料である。これはすぐにでも獲って来ねばなるまい。ミガはひとまず猪三頭に蛙とモグラを十二匹ずつ、更に一昨日辺りに獲って来た羊二頭をもっこ橇に乗せて酋長の城を目指した。これだけの在庫があってもチェルノボグの住民たちにかかれば一日そこらしかもたないのだから大したものだ。
 火を貰いに酋長の城の入り口に辿り着くと、先に来ていたらしい魚屋のフモトトが丁度出て来る所であった。
「おうフモトト、悪いが、ちょいと在庫を切らしちまってるから、昼の間に獲って来る。昼飯時の料理はそっちに任せちまっていいかな」
 そう言うミガの背後には大量の肉の山があるのだが、それでもこの半熊の魚屋はゴート揚げの材料がないのをみとめた。
「ああ、いいぞ。ついでだから鳥一匹獲って来てくれよ。久しぶりに丸焼きが喰いたい」
「ああ、任せとけ。そんじゃ頼んだぞ」
「あいよ」
 こういうやり取りの後、フモトトは去って行った。食料品店は基本的に集落の昼食と夕食、及びクジャの酒場で出される料理の提供を担っている。為に昼の間店を空けて狩りに行かなくてはならないミガはその分の不足を魚屋に頼んだのである。
そして入れ替わりに酋長の城に入って行く。居室ではミガが階段を上って来るのを聞きつけたフィトリアが新しい火種石を生成している所であった。
「暫し待て」
「かしこまりました」
自分より五十歳ほど年上の酋長に人虎は恭しく礼をした。すると、フィトリアはその深刻な顔の中にミガの暗鬱を感じ取ったらしい。
「何かあったか? 随分深刻な顔をしておるぞ」
 フィトリアが放ったこの言葉は、ミガを戦慄させるに十全の効果を秘めていた。ドラゴンたる酋長に隠し事が無駄なのを知っているミガは努めて冷静に、切り出した。
「実は、今朝カルハの奴が夢枕に立ちまして……色々と、将来のことを言われてしまいました。それで恐らく、深刻に見えたのでしょう」
 寛大なる酋長はそれだけで事の大要を把握したらしかった。
「何かを望まれたのだろう。そうでなければ死者は夢枕には立たぬ。ならばそれを叶えて死者を喜ばせてやれ。妾から言えることはそれだけだ」
 言って、フィトリアは火種石と光源石とをミガの火置き匣に置いてやった。ミガは恐れ入って「努めます」とだけ答えて居室を辞した。この集落の行政を司る酋長と四人の賢者は心理の機微に聡い。為にミガの憂鬱も即座に看破されたのである。そして、酋長直々に『死者と向き合え』という趣旨のことを言われたミガの足取りは更に重くなった。
 自分がかつての番いを忘れることは決してないと、ミガはそう信じている。一方で、新しく誰かと番えば、そのものに夢中になってカルハを忘れてしまうのではないかという不安もあった。確信が、足りないのだ。ミガの脳裏には一人、番いを成そうという気になる人物の顔が浮かんでいたが、それはまるで浮気心のようなものである気がして、どうにも積極的になれない。多情多感が基本であるチェルノボグにあって、ミガはかつて愛した人に操立てするという非常に微笑ましいことをしているのであった。せめて、何か、カルハを常に身近に置いておけるものがあれば、また違う考え方が出来たのかも知れない。
 そんなことを思う帰り道、居住区の北の外れにあるリネオクンの薬屋の前を通った時は、何か薬でも買うかと思ったが、自力で何とかすべき問題だろうと思ったので、よした。そうして肉の在庫を一通り店舗に仕舞い込んでしまうと、今度は湖の南岸にあるバグラスの氷屋を目指して桶を担いで出て行った。
実を言うと、この日のミガはその日課をこなすことに相当な躊躇いが存在した。というのも、既に鬼籍に入った十六人の子どもたちのうちの一人が、氷精バグラスによく似通っているのである。悪いことには、その子が生きていれば丁度バグラスくらいの年齢に達する筈であったのだ。それを今日は特に感傷的に思い起こさずにおれない。だからミガは氷屋とのやり取りを極めて短く圧縮した。「いつも通りに頼む」と一言言い、バグラスが「はい」と三つの圧縮氷を桶に入れると「ありがとう」と一言言い置いてすごすご退散したのである。どうにも今日という日は憂鬱だ。
 家に帰って大樽三つの中にそれぞれ一個ずつ圧縮氷を放り込むと、店舗の中に残っていた比較的古い羊肉の燻製を一頭分ほど取り出し、火に炙っては次々に口に放って行った。
『カルハの奴を夢に見たってのに、私はバカみたいにもそもそメシを喰うんだな。水だって飲む。本当に、バカみたいだ。感傷のままに過ごして行けばいいってのに』
 そんなことを考えながら喰う羊燻製はどうにも不味かった。
 朝の日課も食事も済ませてしまうと、さあ狩りの用意である。これはこれで今のミガにとってはつらいものであった。日常の営みを行うのがつらいだけではない。今、ミガが鶏肉を求めて行くべき場所は夢でカルハと逢引した桜花遺跡なのである。目当ての大王鶏はそこでしか獲れない。カルハが何かを残したかも知れないその遺跡に足を踏み入れることは、どうしても踏ん切りのつかない約束を無理に遂行するような心地がして、とても厭な気分になることだった。それでも生者は生きて行かねばならないという、厳然たる事実。
 ミガもそれは分かっているので、進まぬながらもっこ橇を引きずって集落の西にある桜花遺跡を目指して行った。一体、カルハは何をそこに残したのだろうか。或いはそれさえも、自分が何かのきっかけで見た一夜の夢に過ぎぬのだろうか。ミガには自信がない。だが、桜花遺跡という場所でカルハと語り合う夢を見たことは、決して単なる偶然ではないという気持ちも、確かに存在した。
 カルハという女性は随分な紀行好きであった。狭い集落のことだから、どこかに旅行するなどと言ってもそれは居住区から少し外れた所にある遺跡に一晩止まるくらいの小旅行でしかなかったが、カルハはそれをとても好んでいた。ミガもよく一緒について行ったものだ。中でもカルハが好みだったのは、自身の頭に咲いているのと同じ桜の花が年中満開に咲いている桜花遺跡であった。ここは野獣の支配する遺跡の中では割に安全な方で、為にカルハは一人でもよくそこに出かけては桜狩をしていたのである。時にはそこで採れる鬼灯茸や桜舞茸なんかを土産に持って来てくれることもあった。時には春草の冠を作ってミガにプレゼントしてくれたこともあった。二人で少し冒険心を出して遺跡の奥の方まで行った時などは化け物じみた人食い花が咲き乱れていて二人して大慌てで逃げ出したりもしたものだ。こういう幸せだった頃の記憶の花束が、色をつけてミガの頭の中に翻ったのである。
『あの頃は随分、自由で気ままで、楽しかったな』
 ミガは当時から肉屋を、カルハは大賢者アドライアの元で花園の管理を、それぞれ仕事にしていながら、若かりし頃の二人はよく仕事をほっぽり出してあちこちの遺跡に遊びに行ったものだ。それは紛れもない青春の蹉跌であったが、それでもいいと思えるだけの力が二人にはあったのだ。若さと呼ばれる無鉄砲な力が。一世紀記を迎えて、完全に大人の側になってしまったミガに、そんな若さは残っていない。青臭い青春の轍を追想する程度には、彼女も老けてしまったのである。今のミガには、それさえも自分たちの放縦への罰であるように思えて、懐かしさと一緒に昔の自分への苛立ちまで湧いて来る。ありふれた光景に、愛しいものを置いて来てしまった、報い。
そんな思いのある場所に商売の為に入って行くことは、何か冒涜的な気分になるものだった。どんなに死者を思っても死者のように『生活なる呪縛』から逃れることの出来ないことが、とてもとても悲しく思えた。一歩間違えれば死に至るその思惟を秘めながら、ミガは桜花遺跡につくと、よく行く狩場に向かって歩み出した。地下一階に続く隠し階段を降りて行くと、目当ての大王鶏が大量に群生している一画があるのである。
 心ここにあらずという体でミガはその階段の前まで辿り着いた。狩りなど投げ出してカルハの元に行きたいなんて、常なら考えもしないことが湧いて来る。それが狩りにとって最も危険な思考であることを知らないミガではない。今は禽獣との戦いの時と頭を切り替えるついでに、全身を完全に虎のそれに変えてしまった。百三十四年を生きた人虎にとって、肉体の遺伝子情報を操ってその形態を変化させることなど造作もないのである。すると、思考も段々と野獣のそれに近くなっていく。
『夢の痕跡を探るのは、後にしよう。今は、仕事だ』
 そして全身を虎へと変じさせた狩人は、階段をゆっくりと降りて行ったのである。
 狩りをする。忍びやかに、大王鶏の巣に入って行く。比較的文明の痕跡の強い桜花遺跡の地面は石畳になっている。その石畳が破れてしまっている箇所がある。そこに大王鶏は巣を作っているのだ。ミガは気配を極限まで殺し、最初に見つけた一羽の背後から間合いを詰めて行く。大王鶏の方では全然、ミガには気づかない。一足の間合いに至った瞬間、ミガは一気にその背なに飛びつき、後頚部を思い切り噛み千切った。断末魔を上げることもなく、最初の獲物は斃れた。熟練の狩人は吼え声を上げる失敗も、獲物を持ち運ぶ失敗も犯さなかった。無言のまま最初の獲物をそこに放置し、次に向かう。
 大きな桜の木の陰に、次の獲物がいた。そろりそろりと歩を詰めて行き、さっきと同じように飛びかかろうとした。が、これは上手く行かなかった。全長二メートルに至る大王鶏が丁度首を回してミガを発見したのである。そして勇猛な鶏は逃げるどころか己に迫る虎に前蹴りを放ったのである。ミガの方ではそれくらいのことは予測していた。思い切り伏せてそれを躱し、反撃に前足でその腹部を切り裂く。一撃、絶命。ただ悪いことに、この獲物は断末魔を上げて近くにいる同胞に危急の事態を告げた。故にミガはその桜の木の上に登って、残りの鶏が報復の為に集って来るのを待たねばならなかった。
 大王鶏は立派な体格に相応しい大きな翼を持っているが、重すぎる所為で飛ぶことは出来ない。同胞の死骸に群れて来た大王鶏は合計七羽にも及んだ。その七羽がミガの周囲をぐるりと囲んで、降りてくるのを心待ちにするようにゲエゲエ吼えている。ミガにしては望む所である。真っ先に一番近い位置にいた一羽の頭上から落下してその頭部を噛み砕く。まず一羽。続いてその脇にいた一羽の首を前足で薙ぎ払う。鋭い爪はすっぱりとその首を切断した。桜の木を囲んでいた鶏どももミガの方に集い出す。こうなると最早乱戦である。真っ先に手近な一羽の首筋を咬み切り抹殺すると、そのまま鶏の輪から外れて距離をとる。残る四羽は口々に呪いの咆哮を上げながらミガに殺到する。されど前面に集中出来る状態になった人虎にとってこれはさほどの脅威ではなかった。先頭の一羽の首を前爪で切り捨てる。背後にいた一羽の首筋をすれ違いざま噛み千切る。残り二羽は状況の不利を悟ったらしく、逃げようとミガに背を向けた。それがこの猛禽にとっての自殺行為となった。一羽の後頚部を最初の一羽と同じように噛み千切る。それが済む頃には最後の一羽は大分遠くまで逃げたが、最早気配を隠して忍び足にする必要もないミガは全速力でそれを獲る。こうして、都合九羽の大王鶏は歴戦の狩人の技の前に呆気なく命を散らした。
 そしてその一画に最早獣の気配はないと見た人虎は半人半獣の形に戻った。仕事としては九羽もの大王鶏が獲れたというだけで上々過ぎるのであったが、せっかくだからと思って狩人はそれぞれの鶏がいた巣穴を検め出した。すると、九か所から都合十四個の卵が手に入った。チェルノボグで卵というものは希少な食い物なので、これは思わぬ副収入であった。あまりにも乱獲が過ぎているようだが、しかしここに来る度に何故か猛禽は再び同じくらいの数が揃っている。その意味でも、遺跡という場所は摩訶不思議な所であった。
 そうして、卵を砕かないようにする為に、一羽の鶏の腹を裂いて中身を取り出すと、入れ替えに卵十四個を入れる。この肉のクッションで卵を守るのだ。もっとも、体長ニメートルというとんでもない大きさの鶏の卵は当然大きく固く、並の衝撃では割れないが。臓物は後で回収して昼飯にすることにした。
 そして、もっこ橇を置いておいた地上まで一羽ずつ鶏を運ぶ。戦闘の結果として、その死骸は残さず血の悪臭を放っていた。だからだろう、ミガの頭の中に大いなるタナトスの幻影が忍び込んでしまったのは。
 死神は紛れもなくカルハの姿をとっていた。
 第一に、ミガはそのエメラルドと水晶の瞳から流れ落ちた末期の涙を思った。初め、自分が死ぬと決めたカルハは落ち着き払って死の床に就いていた。それがミガと最後の語らいをする段になって泣き出したのである。ぽつりと浮かんだ最初の涙は真珠のようだった。やがてぽろぽろと真珠の粒は溢れ出し、いつしかそれは珠とは呼べないエリダヌスの流れへと変じてしまった。最初の一往復で、ミガはそれを思い出した。
 次に、ミガは死の床に就きながらなおも艶やかな色を湛えていた唇を思った。既に体を自在に動かすこともままならないカルハの唇は、しばしば真珠のような歯を覗かせていた。薄紅色の唇が一瞬ごとに死の色合いに変わって行くのをミガは見た。幾度も語らい、幾度も愛し合い、幾度も口づけたその唇が段々と色を失っていく。やり切れなくって涙が出たのを思い出す。
 第三にミガはカルハの麗しい髪を思った。ミガなんかとは比べ物にならないほどに、カルハの髪の毛はさらさらとしていて、そしてその中に桜の花がたまにチチと紛れているのだ。それはアルラウネとしてのカルハが持つ唯一の植物的特性と言ってよかった。ミガはよくさらさらの髪の毛に手櫛を通す悪戯をした。そんな髪の毛も、最後には一片の花びらさえなくなっていた。
 四番目に思い返したのはカルハの手のことだった。彼女の手は非常に麗しく、いつかそれは『白魚のような指』だと言うのだと大賢者から聞いた。先端にある爪は今朝みた夢と同じく桜真珠の色合いだった。爪の色合いはそのままカルハの生命の炎の色だったのかも知れない。臨死の際、骨ばった手の先にあったのは、輝きを失った花びらたちであったのだ。
 第五に、ミガは幸せな思い出の詰まったカルハの耳たぶを思い出した。耳の上半分は木の枝になっていた。その下に人間と変わらない耳たぶが垂れていたのだ。ミガがそれを好いていることは夢の通りであった。そして、この一点に関しては、死の床にあっても変化はなかった。ただ、カルハが息を引き取った際に触れたそのふくよかな耳たぶは、とても冷たかった。
 六番目に、不意に韜晦して、カルハの普段は衣服で隠していた豊かな乳房を思い出した。一体、ミガはカルハのその部分が途轍もなく好きであった。植物種とは思えぬほどに弾力と瑞々しさに富んだそれの記憶はそのまま褥の記憶であった。ミガは幾度となく、カルハの頂を求めた。カルハはよくそれに答えた。命を育む水は、もう飲むことの出来ないアムリタであった。
 第七に、カルハの、いつもアンクレットをつけていた足首を思い出した。それは大いなる不思議を与える記憶だった。カルハは普通のチェルノボグ民の為、靴なんか履かなかった。それでも、その爪先が汚れている所を、ミガはついぞ見たことがない。一体どうしていたのか、最後の最後まで聞きそびれてしまっていた。だからこそ、美しい記憶なのだろう。
 八番目に、ミガはカルハの声を思い出した。カルハの声には、確かに湿度があった。まるで花の蜜を薄めて浴びせるような、そんな魔性が存在した。決して不快にはならないその湿度を何の意味もなしに甘受する時間は、とても満ち足りたものだった。仮にカルハが最期の語らいをせずに逝っていたなら、その記憶は完璧だった。死の際の声は、掠れていたように思う。
 最後に、カルハの体温、それに対する燃ゆるばかりの恋着が湧き上がって来た。とても優しい体温。それは夢に見た通り、桜の体温に等しかった。まったくカルハという人は桜の人であったのだ。しかし、その体温が死へと向かって行くことを実感した時間は、ミガの心に未だ消えることのない傷となって残っている。死者の体温を、ミガはカルハの死によって知った。
 こういう九相図を思い描いていながら、ミガの腕は一切作業を中断させることがなかった。つまり、獲れた九羽の大王鶏は残らず地上に置いてあるもっこ橇に乗せられ、落ちないように麻縄で厳重に縛り付けられていたのである。この作業と、それ以上に想い人への思惟に疲れ果てたミガは、先ほど取り出してほっぽっておいた臓物を回収して、昼飯にすることにした。
『しっかし、考えてみるとカルハの奴は随分純粋種に近いんだな。アルラウネの部分なんて頭にしかなかった』
 臓物をかき集めて上に運ぶミガの思い通り、カルハの全身で植物種の特徴を備えている箇所は頭部に収斂する。それ以外の所では純粋種の人間と何ら変わりがないと言ってもいいだろう。あまりにも美的に過ぎるとしても。先ほどまでに思い返していたカルハの肉体は、ミガの中では一種の絶対であった。そんな思いを抱えながら歩いていた所為だろう、一群の茸を見つけた。
『カルハの奴はこれが好きだったよなあ』
 そうして臓物を抱えながら摘み上げたのは、鬼灯茸という傘の部分が赤い球状になっている茸であった。食べると甘酸っぱい味がする。せっかくだからと、ミガはそれも一緒に食べることにした。
『カルハが生きてる頃は、一緒によく喰ってたな』
 そんなことを思いながらもっこ橇の所に辿り着くと、その上にどっしり座る。両手に抱いた臓物からも、腰かけた死骸からも、鉄錆の匂いはふんだんに香って来た。だから涅槃にいる恋人を思い出すのだろう。
 そうしてミガは、カルハの思い出と一緒に鳥の心臓を齧り出した。美味い。噛めば噛むほど血の味がする。それがおかしくて、つい、笑った。死人を思いながら喰う飯がこんなに美味いとは。なんだか、狩りに来る前に思い悩んでいたことが、随分馬鹿馬鹿しくなる。それほどにその心臓は美味かった。或いは、狩りの昂揚がミガを変容させたのかも知れない。
『あいつはこれが嫌いだったなあ』
 思いながら心臓を丸かじりにして、呑み込んでしまう。やはり、美味いと思ってしまう。愛する人の遺影を幻視したというのに、飯が美味いのだ。歯ごたえたっぷりの大腸をぐいぐい喰いながら、先ほどの思惟を思い返す。カルハの目、そこから流れた涙。唇、髪、手、耳たぶ、乳房、足先、声、体温、カルハの肉体を造っていた総ての要素。今は失われてしまったその総て。そして先ほどは思い至らなかった彼女の花芯に思い至った時、ミガの目には自然と涙が溢れかえっていた。バカみたいに飯を喰いながら。バカみたいに未練にまみれた記憶を掘り返す。
『探すか』
 そして一通りの臓物を喰い尽してしまうと、塊になっている鬼灯茸を持って、カルハが夢の中で託した『贈り物』を探そうという気になった。涙に濡れた目元と、臓物を喰った為に血まみれになってしまった口元を拭いながら。どうも、涅槃の香りは死者の記憶を呼び起こし、そして夢の続きを見せるものらしい。桜の人の贈り物を受け取る、それがせめて、この日の日常の中に一抹の侘びを添えてくれるだろう。そう思って、歩き出すのだ。
 夢の記憶は、もう大分薄らいでしまっていた。それが惜しくって、ミガは自分の頭を小突いた。何故先に贈り物探しをしなかったのか、鶏なんぞいつでも獲れるだろうが、と。しかし、一緒に桜花遺跡にいた夢の中、そこには確かに月の光があった。ならば、贈り物があるのは遺跡の地下ではなく地上部分だということになる。千編一律の桜並木の間を歩きながら、あれでもない、これでもない、と歩く。たまには鬼灯茸を食みながら。
『暗鬱にはけりをつけよう。きっとあの夢は、霊夢だったから。それなら、贈り物だって現実だ。広い道だったな。なら、そんなにあちこち回らなくてもいいかな』
 そう思いながら、構造を熟知している桜花遺跡の中で、特に広い通りを中心にその桜の木を探す。それでも桜の見分けなんてつかないので、随分難儀なことであったが。
『夢を見たのはカルハが私を心配してる証拠なんだろ。でも、だからって狩りを先にしたのは失敗だった。亡骸の香りがあんなに夢見心地に効くなんて思ってなかった。まだ、思い出せる。カルハが死んだ、あの日のこと。本当は、思い出したくなんか、ないのに』
 全力で桜探しに注力しようとするが、どうしても想い人の遺影がちらついて離れない。九つに分かれた亡骸の記憶。その九相図が一群の桜吹雪となってミガの心理を染め上げていた――涅槃の色合いに。
『や、カルハはもう、死者の季節も通り過ぎた筈だ。だって、夢の中、あいつは全然、生きてるものみたいだった』
 涅槃の色合いに幽玄の血がさす。すると、不意にカルハがその桜真珠の爪を埋めた桜が、枝垂れていたことを思い出す。
『枝垂れ桜。そして向かいに、座り心地のいい塩梅の桜の木』
 その手がかりで、この遺跡を歩きなれた狩人には十全であった。実は既にミガはその一画を通り過ぎていた。りゅうりゅうと散る桜吹雪の中、大急ぎで戻る。夢は、たとえそれがどれほど大切なものであったにしても、過ぎて行ってしまうのだ。
「ここか?」
 声を出して、誰にともなく問う。その桜は見事な滝桜で、向かいには木の根が上手いこと座面になっている桜があった。その桜の前に座ってみると、そこから見える光景に強烈な既視感を覚える。確かに、夢で二人が逢瀬した場所は、そこであるのに違いないのであった。
 ミガは立ち上がり、カルハが立っていたと思しき場所に歩を進める。りゅうと風がなり、ミガの頬をかすめて行った。まるで口づけをされたような一瞬の触感。振り返ってみても、誰もいない。桜の花弁であった。
 枝垂れ桜を見上げ、次に足元を見下ろす。カルハがその桜真珠の爪を埋めたのはそこに違いなかった。どれだけ見てもそこに何かがあるとは思われない。しゃがみこんで、土を掘り返して行く。少しずつ、少しずつ、確かめるように。土はどうも、桜の体温を持っているらしかった。温いそれを八十センチほど掘ると、あった。一つの岩石に見えたが、仔細に観察すれば桜玉の結晶であるようだった。桜の色をした宝石が贈り物とは、なんともカルハらしくて、昨夜のやり取りを思い出して、笑ってしまう。忘れたくても、忘れることなど出来はしない。きっと、それをカルハはミガに伝えたかったのだろう。再び、カルハの言葉がリフレインする。そして、生者の姿をとったカルハ、死の間際のカルハ、二つの像がミガの脳裏に渾然となって現れる。それはまるで、蜃気楼のよう。
『桜の、体温』
 桜玉は、確かにそれを持っているに違いなかった。桜玉は白に薄くピンクを混ぜたような結晶である。紅玉や緑玉、碧玉と同じようなものだ。この宝石を宝紬の賢者レキカに頼んで一つの『宝物』にして貰う。それが、ミガがカルハを忘れないということの、証になるのだ。
 祝福するように、りゅうりゅうと風が鳴く。
 贈り物があった場所に、墓前にそうするように、鬼灯茸の残りを供える。そして、少しだけ、黙祷をする。済むと、桜のはらはら散る中を、ミガは戻って行った。手には大切な大切な桜玉を抱えて。心にはカルハの思い出、その花束を抱えて。
『いつか、会えるんだろう。なら、何も悲しくはない』
 そう思えたのは紛れもなく贈り物の効能であった。桜花遺跡に来る前に感じていた、生活を営むことへの厭な嫌悪感は毫も残っていなかった。それだけの力を、カルハはミガにくれたのだ。生者もいつかは死者になる。それでも、墓場の中で、二人はまた会える。その日まで、つらい思い出もあるけれど、生きて行こう。思った気は確かなもので、それは凛凛としたミガの歩き方からも察せられた。
 そうして、もっこ橇の所まで戻って来る。ミガの生業を支えるその肉の山は、桜玉に比すれば随分醜いものであった。ミガ自身も、また。それでも、醜くとも、生きて行こう。それが、ミガの見つけたたった一つの結論だった。橇を引きながら、桜花遺跡の入り口まで歩んで行く。重たい荷物は、しかし彼女の足取りを遮るものではなかった。来た時よりも大分早く、入り口まで進んでしまった。そして、因縁の桜花遺跡を振り返る。「おやすみ、カルハ」
 それが、言い逃した一言。
「進んで行くよ。私なりにさ」
 それが、二人の愛を永久に変える答え。
 帰ったら早速この桜玉を賢者レキカに預けて、カルハとお揃いのアンクレットにして貰うよう頼もう。それが済んだら、すぐに鳥を捌かないとな、なんて思いながら、ミガは日常の渦の中に帰って行く。今晩は、親しいあの人の所で酒でも飲もう。今日一日あったことを肴にしよう。いつも酒場で忙しく立ち働く彼女に、自慢の揚げ物と卵でも馳走してやろう。そうして夜が更ける頃、ミガは継の恋人と繋がるのだ。そのことへの躊躇いは、もう彼女の中には残っていない。カルハは、それだけのものをくれたのだから。そう、それは先逝く人が遺され人に贈る言葉『Memento_mori』の精神であった。死を忘れずに、されど陽気に、生きて行こう。今日一日の出来事は、ミガにそれだけの原動力をくれたのだ。
 人虎の去った桜花遺跡に、りゅうりゅうと春風の吹く。
 桜吹雪が舞い落ちる、そこには誰もいなかった。
 チェルノボグは今日も平和である。
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