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「小説」
七谷はるか

ママンは嗤う

 ←夢を語る →死へと向かう少女――第一巻本文サンプル――
ママンは嗤う
                                                         作 七谷はるか
                                                    
 よしのちゃんはあいりちゃんと仲よしですが、あいりちゃんのママが苦手です。
 あいりちゃんのママはいつも笑っています。怒る、ということ知らないのかもしれません。いつでもにこにこと笑っていて、目のはしに一、二本の小さなしわを作っています。
 まっかないろがきらいだというあいりちゃんのママのくちびるは、いつでもきれいなピンク色。口紅、というものをぬっているせいだと、よしのちゃんは考えています。
 よしのちゃんは幼稚園からあいりちゃんと二人で帰って、あいりちゃんのおうちでいっしょにおやつを食べます。
 あいりちゃんのママはよしのちゃんのママとちがって、おうちでもきちんとお化粧をしています。そしてかわいいおうちのかわいいお台所で、あいりちゃんのママが作ったかわいいケーキをおやつに食べるのです。

***

 よしのちゃんのママは、いつもそんなことをしてくれませんでした。なんていったって、おやつ、というものをよしのちゃんは幼稚園に通うようになってはじめて知ったくらいですから。

***

 よしのちゃんのママはあいりちゃんのママとは正反対のタイプだったのです。
 だからよしのちゃんもあいりちゃんと同じようにあいりちゃんのママが好きであるはずだったのです。
 でも。
 どうしても好きになれませんでした。
 理由はわかりません。ただ、そんな自分をよしのちゃんははずかしく、わるい人間だと思いました。

***

 よしのちゃんのママは、あいりちゃんのママと同じようにお仕事をしていました。
 ただ、お仕事は夜にあるので、よしのちゃんはいつもさびしい思いをしていました。
 幼稚園バスでおうちに帰ると、よしのちゃんはアパートの二階へと鉄の階段をのぼり、ひよこ色のかばんから、銀色のかぎをとりだして、背のびをしておうちのドアを開けます。
 運が良ければ、ママが小さく暗いおへやでかがみをじいっと見つめたまま、「……おかえり」とこってりとまっかな口紅をぬりながら言ってくれて、よしのちゃんの晩ごはんとしてケチャップ一びんと食パンを二枚をおいてからお仕事に行ってくれます。でも、運が悪いときには、まっくらなおへやでお水とケチャップとマヨネーズだけで一晩―金よう日なら三晩―をすごさなければなりませんでした。
 もちろん、そんな日には―そんな日じゃない日にもたまに―幼稚園で食べるお弁当は作ってもらえません。
 そんな日は、みんながたのしそうにお弁当ひろげる中、よしのちゃんは鼻のいたみをがまんしてうつむいているしかありませんでした。
 見かねた先生が「よしのちゃん。先生のお弁当、食べる?」と言ってくれ、まわりのお友だちが「よしのちゃん、これあげる!」と自分のお弁当のおかずをくれてからはじめて、よしのちゃんは顔をあげることができるのでした。
「ねぇ、よしのちゃんのママはお弁当を作ってくれないの?」
「どうして作ってくれないの?」
「ねぇ、どうして?」
「ねぇ?」
「ねぇ?」
 みんな、よしのちゃんにたまご焼きやおにぎりやウインナーをくれる時、決まってそうききます。
 にたにたと、みんなはよしのちゃんに笑いかけるのです。
 そんなとき、よしのちゃんはニコニコと笑って返事をしません。きっとのどから声を出してしまえば、びっくりするほどひどい言葉を、お弁当を分けてくれるやさしいみんなに言ってしまうでしょうから。
 それにそんなわるいことをしてしまえば、ママに迷惑をかけてしまうことになってしまいます。ママはきっとおこって、よしのちゃんをたたき、口をきいてくれなくなるにちがいありません。
 だから。
 だいすきなママにきらわれたくないので、よしのちゃんはじぃっと、だまっています。
 目をつぶって、ほんの少し息をとめて。そうすれば、心ぞうのあたりからぼこぼことあがってくるような、熱いあぶくをつぶしてしまうことができる気がするからです。
 
 お弁当の時間のあとのおひるねの時間。ほんの少しおなかがへっているので、なかなか寝つけないよしのちゃんの耳に、みんなのくすくす笑いがとどきます。
「ねえ、よしのちゃんは『かわいそうな子』なんだって。うちのママが言ってたわ」
「いつもお弁当もってこないから?」
「ちがうんだって、うわぐつぶくろも、はぶらしいれも、おどうぐばこもよしのちゃんはママに作ってもらえないし。幼稚園バスのかえりのおむかえにも来てもらえないからだって」
「おようふくも、かみの毛も、いつもきたないし。きっと『男と遊び回ってほったらかしてるにちがいないわ』ってママがパパに言ってたのきいたもん」
「うちのママは『やっぱりあんな母親だけで子育てなんて無理なのかもね』っていってたことがあるよ」
「どういういみなのかな?」
「わかんない。でも、ママが『よしのちゃんには優しくしなきゃダメよ』って言ってたよ」
「わたしのうちも!」
 くすくす。くすくす。くすくす。くすくす。くすくす。
 よしのちゃんは目をぎうっ、とつぶります。
 自分は「かわいそうな子」じゃないのに。
 だって、ちゃんとママはごはんをよういしてくれるし、おようふくだって買ってくれるし、ごきげんなときは笑ってだきしめてくれるもの。
 それでもそう言われると、なんだかまた息が苦しくなって鼻がツンとしてきてしまいます。
 ひゃっくりみたいな声が出そうになって、よしのちゃんはかおをまくらに押しつけました。さっきまで目にぼんやりとはいっていた、よしのちゃんのおふとんカバーのピンクのうさぎが、よしのちゃんのママの口紅と同じ色になり、よしのちゃんの目の中ではねて、どろり、とまっくろな中に消えてしまいました。

***

 あいりちゃんのママはかいしゃでおしごとをしていて、どんなにいそがしくても、いつもあいりちゃんのことをきにかけてくれています。
 あいりちゃんのおうちも、よしのちゃんのおうちとおなじようにパパがいませんでした。
 それなのに。
 うわぐつぶくろにも、はぶらしいれにも、おどうぐばこにも「あいり」とキレイに名まえを書き、ピンクのウサギのシールをはってあげています。
 お弁当にはいつもフックラしたたまご焼き、コロコロしたとまぜこみごはんのおにぎり、タコのかたちのウインナー、ウサギのかたちのりんごをいれてあげています。
 いつもかわいいワンピースをきせて、かわいいおはなのゴムでかみの毛をかわいくふたつにしばってあげています。
 そして、かえりの幼稚園バスが来るじかんにかならずおむかえに行き、「あいり、おかえりなさい」といって笑ってあいりちゃんをだっこするのです。
 「ただいまママー!」とあいりちゃんのママに抱きついて、キャッキャッと笑うあいりちゃんを見ているとき、よしのちゃんもあたたかでしあわせなきもちになれるのでした。なにしろ笑っているあいりちゃんは、お花のようにすてきなのですから。そして、あいりちゃんのママも。
 でも。
 そんなにすてきなのに、よしのちゃんはあいりちゃんのママをこわいとおもうのです。
 あいりちゃんのおともだちも、そのママたちも、「あいりちゃんのママはほんとうにやさしくてすてきね」と言っているのに。
 笑ったときにできる目のはしの小さなしわも、ピンクのくちびるも、口からのぞくまっしろな歯も。
 お花のようにあかるいえがおの、その、ぜんぶが。
 そう思っていると、おもわず、幼稚園バスのまどガラスごしによしのちゃんはあいりちゃんのママと目があってしまいました。
 あいりちゃんとなかよく手をつないだあいりちゃんのママ。あいりちゃんといっしょに笑いながらうたをうたっているのに、その目は、よしのちゃんがおうちでひとりおるすばんしている夜のような、まっくらないろをしていました。
 くらくて、さびしくて、こころぼそい、くろいろです。
 なぜでしょう。あいりちゃんのママのそばにはいつもあいりちゃんがいて、さびしくなんかないはずなのに。
 よしのちゃんはなんだかびっくりしてしまい、あとであいりちゃんのおうちで、あいりちゃんといっしょにおやつのショートケーキをたべていても、おいしくかんじませんでした。
 おやつをたべているあいだ、よしのちゃんはちらちらと、かがみにうつったあいりちゃんのママをぬすみ見ました。
 あいりちゃんのママは、やっぱりニコニコと笑っています。でも、ときどきくろ目があなのようにくらくなることに、よしのちゃんはきづいてしまいました。
 ああ、そうか。
 あいりちゃんのママは、ときどき目だけが笑っていないんだ。
 だから、こわいのかもなぁ。
 よしのちゃんは、口のまわりについたクリームをペロリとなめながら、ぼんやりとそう感じたのです。

***

 よしのちゃんが小学校四年生になった夏休みによしのちゃんのママは家に帰ってこなくなりました。
 よしのちゃんのママは金曜日の夜に、テーブルの上に三万円を置いていったまま、月曜日の朝になっても、その次の月曜日の朝になっても、そのまた次の月曜日の朝になっても帰ってきませんでした。
 ママお昼には帰ってくるかなぁ。
 もしかしたら、私がいると帰りにくいのかなぁ。
 そういえばこの間、朝五時くらいに帰ってきたママに「あんたは本当に鬱陶しい」って布団の上から蹴られて、いれたてのコーヒーかけられたしなぁ。
 きっとママお仕事で疲れてるだろうし、私は邪魔しないようにしなきゃ。
 3回目の月曜日の朝に、よしのちゃんはそう考えました。そこで毎日学校のプールに行くことにしました。
 ママがくつろげるように、毎朝お洗濯をして、家の掃除をして、お台所の食器を洗って。お酒を飲んできたママが食べやすくて、ずぅっと前に「美味しい」と一度だけほめてくれた里いものお味噌汁を作ってから、よしのちゃんはプールに出かけます。
 真っ白だったよしのちゃんの肌は、みるみる小麦色に変わっていきました。
 ママに蹴飛ばされたときにできたあざも、コーヒーをかけられたときの水ぶくれも、真っ赤な色の爪で引っ掻かれたときの傷も、みんな夏の太陽が焦がして見えなくしてしまいました。
 使えるお金は限られているので、ごはんを食べる量を減らしていたよしのちゃんにとって、プールに行くことはとてもおっくうだったのですが、ママにゆっくりしてもらうためにはしかたがありません。
 そのかわり、プールが閉まる時間になるまで泳いだ後は一目散に家に帰ります。びしょびしょの髪の毛の水気が走っているうちにあらかた消えてしまうくらい、一目散に走って帰るのです。
「……っ、ママ! ただいまっ!」
 そうして、急いで家の鍵を開けます。
 でも、部屋の中はいつも、静かなのでした。ピンクのうさぎが飛び跳ねているビニルバッグを握りしめたまま、よしのちゃんはお台所を通り抜け、テレビのある和室を通り抜け、ふすまを開けて真っ先に隣のママの部屋をのぞくのですが、ママはそこにはいません。
 いつだって、太陽があたためた、部屋の中に残るママのお化粧品とお洋服と、その中に少しだけ感じられるママの匂いがよしのちゃんを出迎えるだけなのでした。

***

 それに比べて、あいりちゃんはどうでしょう。
 あいりちゃんのママはお仕事が忙しく夏休みも無いほどでしたが、毎朝、学童保育のお教室と塾に行くあいりちゃんのために、美味しいごはんとお弁当を作ってくれます。
 コンガリ焼けたトースト、ツヤツヤのバター、フワフワのオムライス、コップにナミナミと注がれたオレンジジュースが定番のメニューなのです。
 そして、お弁当はあいりちゃんが朝ごはんを食べる前に出来上がっていて、ピンク色のウサギ柄のお弁当包みに包まれてしまっているのです。
「ママは秘密が大好きなのよね。『お弁当の中身はお昼になるまでのお楽しみ』だなんて」
 よしのちゃんにそう言って、プウッ、とあいりちゃんはほっぺを膨らませるのですが、ちっとも不機嫌そうではありません。だって、目がキラキラと笑っていますもの。
「いつだって、今日のお弁当の中身は何かのヒントもくれないし。こんな手の込んだことするのはうちのママぐらいしかいないわ。ママはほんとにいじわるなんだから」
 でもそう言ってから、あいりちゃんはいつもにっこり笑うのです。「でもいいの。ママ、来週一週間旅行に連れて行ってくれるし、そのためにお仕事夜遅くまで頑張ってくれているし。あいりのママは最高なんだもんね」
 そのときのあいりちゃんの顔といったら! まるで、天使のようにかわいらしいのです。
 でも、何故でしょう。
 それを聞くときのよしのちゃんの胸は、そこはかとなく苦しくなるのです。
 そして、きまって呼吸がしづらくなるので、よしのちゃんは胸を押さえます。
 それを見たあいりちゃんは、「大丈夫?」と声をかけます。大きな目が本当に不安そうによしのちゃんを見つめています。
 そんな目をさせたくなくて、何でもないよ、とニコニコと答えながらよしのちゃんは思うのです。
 私は、ちっとも大丈夫なんかじゃない。
 あんたなんかに私の気持ちなんかわかりゃしないわ。

***

 夏休みも終わりになってきました。
 プールから帰ってきて、ママが帰ってきていないことを確認すると、よしのちゃんはいつも何だか疲れてしまい、眠ってしまいます。
 そうして目が覚める頃には、ママの口紅と爪の色をした太陽の光で部屋はいっぱいになっているのでした。
 よしのちゃんは、洗濯物を取り込むために寝っ転がっていた畳から体を起こします。部屋の中の空気も、真っ赤な夕日も、何だかヌラヌラとしていて気持ち悪く感じられます。ほっぺと腕と足とすっかり乾いてしまった髪の毛が、音をたてて畳から剥がれました。
 ベランダの洗濯物を取り込む間、前に比べて冷えてきたことに気付きました。ママに部屋から七月の初め頃に閉め出されたときよりもです。
 生温かい洗濯物を腕にいっぱい抱え、よしのちゃんは考えます。
 どうして、ママはあんなふうになってしまったのでしょう?
 まだ、よしのちゃんが小さかった頃。まだ、よしのちゃんのパパがいた頃は、ママはあんなふうではなかったはずです。
 何故か知らないけれど、よしのちゃんの家には、よしのちゃんが赤ちゃんだった頃の写真が、一つもありません。だから、小さかった頃のことを思い出す時はよしのちゃんの記憶力に頼るしか方法が無いのですが、その頃のママは、ピンク色がよく似合い、よく笑う、やさしいママだったのを、よしのちゃんはおぼろげながら覚えていました。
 よしのちゃんが今使っている、うさぎのお布団カバーもうさぎのビニルバッグも、よしのちゃんが幼稚園に通い始めた時に、ママとパパとよしのちゃんでいっしょに買いにいったものでした。ママから離れて日中を過ごすのがとても怖かったよしのちゃんは、ママの色だったピンク色で大好きなうさぎの柄じゃなきゃいやだ、と駄々をこねて、パパとママを困らせたことを思い出して、思わず苦笑いをしてしまいました。
でも。
 よしのちゃんは洗濯物を、ばさり、と畳の上に落とします。
 よしのちゃんが幼稚園に入ってしばらくして、パパがいなくなってお仕事を始めてから、ママの色はピンクから赤に変わりました。
 そしてその頃から、ママはよしのちゃんに向けてめったに笑いかけなくなりました。
 よしのちゃんのことを、気にかけなくなってしまったのです。
 開けっ放しになっていた網戸を閉めようと、よしのちゃんは藍色が混ざり始めた空へ向きなおります。ママの色は部屋の中からもどんどん消えていってしまいます。
 ああ、ママ。
 大好きな、よしのの、ママ。
 どうして、こんなことになっちゃったの?
 あの時、よしのが、駄々をこねたせい?
 よしのが、良い子じゃなかったから?
 どこかから、「ただいまー」と歌うように高い声がかすかに聞こえてきました。もう夜の七時です。きっとどこかの家のママが、買い物かお仕事から帰ってきたのでしょう。その声を迎える声が聞こえる前に、よしのちゃんは、網戸だけじゃなく窓ガラスもいっしょに閉めました。
 ピシャンッ!
 部屋の中にかすかに入り込む、夕日を追い出すような音が響きます。部屋の中の空気と、ママの匂いがビリリと震えました。
 その時、よしのちゃんは気づいてしまったのです。ママの声なんて、ここしばらくは舌打ちと怒鳴り声しか聞いていなかったこと。ママの声での「ただいま」という言葉を、頭の中で思い出すことなんて、とうにできなくなってしまったことを。

***

 あいりちゃんが中学生になった頃。あいりちゃんとあいりちゃんのママは、喧嘩をしてしまったようでした。
 ようでした、というのも、理由がよしのちゃんにはさっぱり分からなかったからです。
 それは、あいりちゃんのママも同じでした。不安そうな顔で、ただただ、あいりちゃんの顔を窺うばかりの様子が、気の毒なくらいです。
 あいりちゃんのそばにいる人間にも、理由が分からないということは、きっかけは、本当に些細なことなのでしょう。でも、それは虫の居所が悪かったあいりちゃんにとっては、この上なく大切なことだったのでしょう。
「ママは、私のことをちっとも分かってない」
「親なら、娘のことをもっと察してよ」
「ママは、私のことが嫌いなんでしょう」
「もっと私のことをちゃんと見て欲しいよ」
 不機嫌そうにそう言うあいりちゃん。怒った顔も、可愛らしい顔立ちでは怖さなど感じられるはずもなく、むしろ、愛らしさを引き立てててしまっています。こんな顔で怒っている娘を見かければ、周りの人はもちろん、怒らせた相手だって苦笑いをしながらなだめすかして、意地なんか張らずにすぐ謝ってしまうでしょう。
 いつものよしのちゃんなら、やはり苦笑いをしながら、怒るあいりちゃんをなだめて、仲直りをさせる方向になんとか持って行くのですが、今回はそれが出来ませんでした。
 何故なら、あいりちゃんはよしのちゃんの言うことに耳を傾けようとしなかったからです。
 何を言っても、あいりちゃんはママに対して口を開いてくれませんでした。
 いつもなら長くても、喧嘩をしてから二日でママに対して笑顔を見せるあいりちゃんですが、今回は一週間経っても会話すらしてくれません。
 あいりちゃんのママは、おろおろするばかりです。
 よしのちゃんも、見たことのないあいりちゃんの態度に不安を覚えました。
 でも、同時に。
 幼稚園の頃に何回か感じた、あの胸の奥の冷たいような熱いような、痛みを持ったあぶくがボコボコと浮かんできて、よしのちゃんの心臓を圧迫するのです。

***

 もう、明日で夏休みが終わるという頃、よしのちゃんは買い物へ出かけました。
 ママのために毎日作っているお味噌汁の具にする、里いもを買いに行こうとしたのです。
 もうそろそろ九月といえど、日中はまだまだ日差しも強く暑いです。道路にできた木下闇を選んで、よしのちゃんはてくてくと歩いていきます。
 歩きながら、よしのちゃんはがま口のお財布の中身をのぞきます。百円玉が二枚と、十円玉が四枚に、五円玉が二枚。それが今のよしのちゃんの全財産でした。
 おうちの近くのスーパーで、里いもを一袋買えるか買えないかという、ぎりぎりの値段です。正直お味噌も足りないのですが、それは節約して、お塩で味を整えればいいので、問題はありません。
 でも、具だけはどうしても必要です。
 よしのちゃんは、ママが早く帰ってくることをお祈りしながらスーパーに向かいました。
 ところが、困ったことが起こりました。今日に限って、そのスーパーの里いもは、売り切れてしまっていたのです。
 その日の特売品の一つが里いもで、午前中に全部売り切れてしまっていたのです。新聞にはさまっているちらしを見ていれば、買い損ねることはなかったのでしょうが、よしのちゃんのおうちは新聞を取っていなかったので、そのことに気付かなかったのです。
 ああ、しまった。そう思いながら、よしのちゃんはスーパーを出ました。店内に入って一瞬引っこんだ汗がまた、ブワリ、と出てきます。
 近くに、このスーパー以外で里いもを売っていそうなお店はなかったかな。たしか駅の近くにあったような気がするなぁ。よしのちゃんはそう考えて、今度は少し遠くの商店街の八百屋さんに行ってみることにしました。
 でも、そこの八百屋さんには里いもがありませんでした。
「ごめんねぇ、お嬢ちゃん。まだ、里いもは仕入れてないんだよ」と、真っ黒に日焼けした八百屋のおじさんは笑いながら言いました。「おつかいかい?」
「あ、あ、あの。こ、このち、ちかくに。や、八百屋さんは、ありませんか?」
 よしのちゃんはつっかえながら、おじさんに聞いてみました。最近は一人でいるところを見られないようにうちに引きこもってばかりいて、学校のプールで会う先生にあいさつする以外、久しぶりに人と話したから、声がうまく出てきません。
 おかしなしゃべり方をしてしまったことを、恥ずかしく思って顔を真っ赤にしてうつむいたよしのちゃんに、ハハハ、と笑いかけながらおじさんは言います。「あー、○○町のスーパーは?」
「も、もう行きました」おじさんはとても背が高く、ずっとその顔を見上げていたよしのちゃんは、首が疲れてきました。
 うーん、とおじさんは考えこみます。「うちみたいな個人経営の八百屋より、スーパーの方が確実にあるからねぇ。△△町の方に確かスーパーがあったと思うけど」
「△△町、ですか」そこは今いる駅前の反対側で、ここよりもずっとずっと遠いところでした。
「お嬢ちゃん。歩きかい? だったら自転車かバスに乗っていった方がいいよ。ここから歩きなんかで行ったら、暑さでブッ倒れるよ」
「い、いえ、だいじょうぶ、です。ありがとう、ございました」
 よしのちゃんはそう言うと、そそくさとその店から離れました。よしのちゃんは自転車を持っていませんでしたし、バス代のお金もありません。どのみち歩いて行くしかありませんし、そのうえ今は午後四時近く。今からそこへ歩いて行き、帰って夕ごはんを作ることも考えるとのんびりなんかしてられません。第一、急がないとスーパーが閉まってしまいます。
 よしのちゃんは、小走りになって△△町に向かいました。日陰を選んで歩く、なんて余裕はありません。お財布をにぎりしめて、よしのちゃんはひたすら走ります。

 ところが、駅の反対側の町に入ってからです。よしのちゃんは、はた、と足を止めました。自分のそばの電柱に書かれている住所を見てみると、そこには聞いたことのない町名が書かれていました。
 ちがう、ここは、△△町じゃない。
 ここは、どこ?
 長年住んでいる土地とはいえ、駅の反対側に行くのは、よしのちゃんにとって初めてのことでした。
 道に迷った! どうしよう?
 よしのちゃんは、とりあえず地図が無いかと近くの路地に入りました。ところが、道を進めば進むほど、曲がれば曲がるほど、どんどん景色は知らないものに変わっていくだけで、いっこうに地図のようなものも目当てのスーパーマーケットも見当たりません。
 よしのちゃんは正直泣きそうでした。でも、もう十歳の自分が迷子になって泣くなんてみっともないし、そんなことをすれば道行く人に注目されてしまうでしょう。人目を集めることはしたくありません。
 ツンと痛む鼻とガンガンする頭を抱えながら、よしのちゃんは目の前の角を曲がりました。すると、目の前に小さな交番がありました。
 あまり人と話をしたくなかったよしのちゃんですが、背に腹はかえられません。道をきこうとよろよろと交番に向かって走り出しました。
 その時です。何かにつまづいたのか、よしのちゃんの体は大きくななめにかしいで、滑るように道路にたたきつけられました。
 「あ!」と思わず出た声にびっくりして、交番の中にいた若いおまわりさんが転んだよしのちゃんに気付いて、外に出てきました。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
 でも、よしのちゃんは、それに答えられませんでした。何故なら、転んだひょうしに手からお財布が飛び出し、地面に叩きつけられてがま口の留め金が外れ、こぼれ落ちた小銭が側溝のふたの穴の中に吸い込まれるのを見てしまったのですから。手には、百円玉二枚と、十円玉が四枚しか残りませんでした。
「立てる? ああ、肘とか膝とか擦りむいちゃってるね。交番においで、ちょっと消毒してあげるよ」と、おまわりさんは言いましたが。よしのちゃんはその場から立ち上がれませんでした。
「……っひ」
「お嬢ちゃん。どうした? 痛かったか?」
 ブルブル、とよしのちゃんは頭を振ります。「お、お金が」
「お金?」と、おまわりさんは道に落ちたお財布を見ました。「ああ、お金がドブに落ちちゃったのかー。蓋もしてあるし、このドブ流れが速いからなー。諦めるしかないねぇ」
 その言葉を聞いて、よしのちゃんは頭がグラグラしました。ママのための里いもが。里いもがこれでは買えません。
「さ、里いもが」
「里いも? おつかいの途中だったの?」
「ま、ママの里いも、か、ヒッ、買えな、ヒック、買えなく、なッ、なっちゃ、ヒクッ!」
 とうとう、がまんの限界でした。よしのちゃんは鼻水と涙が唇とほっぺを流れていくのを感じました。
「ああ、泣かないで。どれ、交番で傷口を洗わなきゃいかんから、こっちおいで。それからおうちに電話して、ママに迎えに来てもらおうか」おまわりさんはそう言って、よしのちゃんを抱え上げました。
「……いない」
「え?」
「うちに、ママ、いないの」
「ん? お嬢ちゃん、それどういうこ……」
 よしのちゃんはおまわりさんの言葉を最後まで聞けませんでした。
 そのまま、ひどい吐き気と頭痛におそわれて、気を失ってしまったのです。

 目が覚めた時、よしのちゃんは病院のベッドの上でした。
 しばらくしてからお医者さんとスーツを着た「市役所の福祉生活課」のおばさんがやってきて、よしのちゃんは「熱中症」と「栄養失調」になっていたこと。よしのちゃんはこれから、パパのママ、つまりよしのちゃんのおばあちゃんのおうちで暮らすことになったことを聞かされました。

 そのまま入院している間に、引っ越しの準備はどんどん進んでしまいました。
 初めて会うおばあちゃんは、何度もおみまいに来てくれて、引っ越しの準備がどこまで進んだか話してくれました。
「でもびっくりしたよ。おまえはタンスの中を見なかったのかい?」
 よしのちゃんは首をかしげます。タンス? ママのタンスのことでしょうか? ママが絶対に見るな触るな、と言っていた、あのタンス。
「あの女の持ちものなんか、ほとんど残ってなかったよ。通帳も印鑑も持ち出して。娘を飢え死にさせる気だったのかね」と、憎らしそうにおばあちゃんは言いました。「実の娘を捨てるなんて。本当にロクな女じゃないね」
 ああ、そうか。
 よしのは、ママに捨てられちゃったのか。

***

 だから、これだけママにかまわれて想われているのに、ママに対して、不満をぶつけるあいりちゃんをよしのちゃんは理解できませんでした。
 ママと喧嘩してから八日目の日曜日。よしのちゃんはあいりちゃんの家で、不機嫌そうなあいりちゃんと一緒におやつを食べながら、窓ガラスに映ったあいりちゃんのママを盗み見ます。あいりちゃんのママは、伏せがちの眼、困ったように顰められた眉、所在無げにテーブルのピンクの花を弄るか細い指、浮かない顔をしていました。ガラス越しに視線が合うと、あいりちゃんのママの黒目は、よしのちゃんの嫌いな寂しげな夜の色をしています。
 よしのちゃんは。その場にいるのが居た堪れなくなりました。 
 ああ、可哀想。
 こんなに困っているのに。
 あいりちゃんのママが、あいりちゃんのことを大切に想っているのは、傍から見ていても解るくらいなのに。
 ガラス越しに、あいりちゃんのママが、口を開くのが見えました。
「あいり、あのね……」
「ごちそうさまっ!」あいりちゃんはそう言い捨てると、まだ半分近くご飯が残っているのに、テーブルを離れてしまいました。
 その時の、あいりちゃんのママの瞳が少しいつもと違ったように見えたのは、よしのちゃんの気のせいでしょうか?
 いつもの幸せそうなイキイキした色でもなく。時折垣間見える夜の色でもなく。あの一人でママの帰りを待っていた、熱い熱い、夏休みの夜のような色を、あいりちゃんのママの眼はしていました。
 あいりちゃんが階段を上り、自分の部屋のドアを開け、そして閉めた振動が階下にも伝わってきます。ティーカップの中身が波立ち、やがて琥珀色の波紋も消えてしまいました。

***

 おばあちゃんは、よしのちゃんに優しかったのですが、派手なものやことを嫌い、堅実さを美徳とする、とても厳しい人でもありました。
 特に挨拶や、目上の人に対する言葉遣いや、立ち居振る舞いなどには拘る人でした。
 引っ越しをして、その土地の中学校に行き高校生になったよしのちゃん。おばあちゃんと暮らし始めて、食事をしながら、よしのちゃんはいつもいつもこう聞かされました。
「もともと、妾はおまえの父親と母親が一緒になることには反対だったんだ。それでも少しは自分なりに気にかけて、おまえの父親が死んでからの援助も申し出たんだが、あの女ときたら! それを手酷く断わってね。『自分一人で大丈夫』だなんて。結局、この様じゃないか」
 よしのちゃんは、そう言われてもママのことが嫌いにはなれませんでした。ただ、こうして養って、学校にも行かせてくれるおばあちゃんに失礼だと思って、反論もせず。湯呑の中の琥珀色のお茶を見つめます。おばあちゃんが中身ほ飲み干した湯呑を、食卓の上に、カコン、と置くと大きな波が出来ました。
「だからね、よしの。おまえはあの女みたいになっちゃいけないよ。勉強して、ちゃーんとした仕事について、幸せな家庭を築くんだよ。妾はおまえには幸せになって欲しいんだよ」
 波が消えるのを見届けてから、よしのちゃんは、自分の、白磁にピンクのうさぎの跳ねている湯呑の中のお茶を飲み干します。
 そしてこう言います。「うん。分かったわ、おばあちゃん。私勉強もお手伝いも、頑張るからね。あ、お茶のお代わり欲しい? 待ってて、今用意するからね」
 その言葉に、おばあちゃんは嬉しそうに微笑みます。
 よしのちゃんは急須の中にお湯を入れ、おばあちゃんと自分の湯呑に新しいお茶を注ぎます。
 いつもおばあちゃんの方に先にしているので、自分の方にお茶を注ぐのは一番最後になります。急須の注ぎ口から、少しお茶っ葉が混ざった苦そうな雫が垂れました。
 覗き込むと、湯呑の底は靄のようにふやけたお茶っ葉で濁っていました。
 いつの間に、こんなに澱みが出来ていたのでしょう?

***

 その、熱帯夜の眼をしたあいりちゃんのママを見て、よしのちゃんは初めて、あいりちゃんのママに親近感を覚えました。
 ああ、なんだ。
 あいりちゃんのママも。
 私も。
 あいりちゃんのことが、憎かったんだ。
 そうか、あいりちゃんのことを嫌っても良かったのか。
 「ママ」だから無条件に「娘」の全部を受け入れて許すことが当たり前、なんて嘘なんだな。
 自分に無理を強いて「仲良し」し続けることも、しなくていいのか。
 多くを与えられておきながら、まだ足りないと駄々をこねるあいりちゃん。
 あんな娘なんか。
 大嫌い。

***

 高校を卒業して、就職してからしばらく経って。おばあちゃんは亡くなってしまいました。よしのちゃんのためにと一緒に暮らし始めてから貯金をしていたようで、結構な額の遺産を残して。
 出奔してしまったママの親類なんて、わからなかったので、よしのちゃんは天涯孤独という状態になってしまいました。
大きくなって、よしのちゃんが物心ついた時のママの年齢になってからも、よしのちゃんはママを嫌いになることが出来ませんでした。
 あんなに酷い扱いを受けたにもかかわらず、やはり、ママのことは好きなままなのです。
 でも、その癖。おばあちゃんに言われたことを気にして、真面目で慎ましい生活を送ろうとする自分がいることも、よしのちゃんは気づきました。ママのような人間にならないようにしたい、という思いを持つもう一人の自分です。
 さて、よしのちゃんはどちらの思いを選びとればいいのでしょう?
 よしのちゃんはおばあちゃんのお葬式を済ませた後。そのままお仕事を続け、慎ましく暮らし、しばらくしてから職場で出会った人と入籍しました。

***

 あいりちゃんのママに親近感を覚えた日から、しばらくして、あいりちゃんとあいりちゃんのママは仲直りをしました。
 虫の居所が収まったのか。あいりちゃんがある日突然、ママに話しかけてその喧嘩は終わったのです。
 謝罪らしい言葉も、態度も交わすこと無く。
 あいりちゃんもママも、また楽しそうに会話をしたり、食事をしたり、買い物をしたりしています。でも、よしのちゃんには、あいりちゃんのママの考えていることがよく解りました。
 あいりちゃんに対する、怒りと憎しみと不信の気持ちがまだ、あの湯呑の底の靄のように残っていることを。
 でも、それでも関係を円滑にするために仲の良いフリをしているのを。
 あいりちゃんと一緒に、あいりちゃんの側でよしのちゃんも歳を重ねながら、同じように仲良しのフリをし続けます。
 「幸せで平穏な暮らし」を守るためです。

***

 よしのちゃんがお嫁に行ってからしばらくして、よしのちゃんに赤ちゃんが授かりました。
 よしのちゃんもそのお婿さんも、とてもとても喜びました。特によしのちゃんは、今まで自分がママにしてもらえなかったことを、赤ちゃんにしてあげられると思うと、楽しみで楽しみでしょうがありませんでした。

 ところが。あと三月で赤ちゃんが生まれるという時に、お婿さんが事故で亡くなってしまいました。
 よしのちゃんは嘆き悲しみました。でも、その間にもお腹は膨れてきます。赤ちゃんはよしのちゃんのお腹を蹴り始めます。
 おばあちゃんの遺産はまだ残っていたし、お婿さんの保険金も下りていたので、当面の生活費に不安が無かったことが幸いでした。
 よしのちゃんは、涙を拭ってこう決意にしました。
 この子に自分がしてもらえなかったことを、全部してあげて、幸せにしよう。もう、自分にはこの子しか血の繋がった人間が残されていないんだから。


***

 あいりちゃんは無邪気に、花が開くように美しく成長していきました。高校生になり、大学生になり、成人をし、仕事に就き、それから間もなくして妊娠していることが分かり、お嫁に行くことが決まったあいりちゃん。
 お世辞にも平穏な日々とは言えませんでしたが、よしのちゃんのそれに比べれば、平和で恵まれていた日々でした。その傍らによしのちゃんはいつも居て、人生経験をあいりちゃんよりも多く積んだ人間として、あいりちゃんを支えていきました。
 あいりちゃんに対する、熱帯夜のように澱んだ気持ちを燻らせたまま。

「ねぇ、私がさ。親になったら、どんな『ママ』になるのかな?」
 六月のある晴れた日曜日。少しだけ湿り気のある外気が花嫁の姿を乱さぬよう、空調の利いた豪奢な部屋の中で、あいりちゃんはよしのちゃんにこう話しかけました。
「どうしたの? あ、マリッジブルーとマタニティブルーが一緒に来た?」
「ちっがうよ! うーん。この間、引っ越しの準備で本を荷づくりしてる時にね『異邦人』読んで。あの主人公の『ママン』って、死んじゃっても実の息子に悲しまれないし。何か気の毒だなー、って」と、あいりちゃんは部屋にある冷蔵庫から、レモン水を取り出してゴクリ、と飲みながら続けます。「ねぇ、やっぱり『ママ』って大変?」
「まあね」と、よしのちゃんは続けます。「人間を育てるってことは、やっぱり責任があるからね……って。ちょっとあいりったら! そんなに水分摂って。そんな格好じゃトイレに行きにくいんだから、我慢なさいよ」
「解ってるって! 相変わらず口煩いなぁ。っても私達、子供だった時以来、あんまり喧嘩したこと無いんけどねー。そっちこそ、産んでから腰痛めてたなんて初めて聞いたわよ。もうお互い歳なんだし、式の最中に体調悪くされると困るから、椅子に座んなさいよ」
 あいりちゃんは笑いながら、ペットボトルを冷蔵庫に戻します。
「歳だなんて、貴女も私もまだまだ若いわよ!」
 抗議するよしのちゃんをカラカラと笑いながら、あいりちゃんは、よしのちゃんが座った椅子の向かいのソファに腰掛けました。目の前のテーブルにはよしのちゃんお手製の薄い空色のベールと、ほとんど白に近いピンク色の花々のブーケ、そして今朝がた出来上がったばかりのピンク色のウサギの縫いぐるみで出来た、披露宴用のウエルカムドールが置かれています。
 幸せの色の、ピンク色。
 モヘア生地のウサギの耳を指で弄りながら、あいりちゃんは続けます。「で、さっきの続きなんだけど。『ママ』がどれだけ愛情を注いでも、子供がそれを感じてくれないことがあるのは寂しいなー、なんて思っちゃって」
 ニコニコと笑いながら、よしのちゃんは内心舌打ちをします。
 お前が、あいりちゃんのママの愛情を汲めなかったお前が、それを言うな。
 これ以上ないくらいママに想われていたのに、まだ想うことを要求した、温室育ちのお前が。
「でもさ、それでもいいかな、って思ってもいるんだよね」
 ふつふつと沸く、胸のあぶくを感じていたよしのちゃんは、その言葉にハッとしました。
「親の愛情なんて、所詮親の都合で子供にあげているものじゃん? よく反抗期で悪態をつく子供に『あんなに可愛がってやったのに』なんて親が毒づいたりするけど。でも、それは負け惜しみじゃあないかなと思うの」
「へぇ、なるほど」
「どんなに愛しんでも、ムルソーみたいに母親の葬式の次の日に、女遊びをして人殺しちゃったりするような子供に育っちゃう可能性もあるわけだしね」
 少し苛々したよしのちゃんは、あいりちゃんに言います。「随分な言い方ね。緊張しているのは解るけども、折角のおめでたい日なんだから、もうそんな話止めましょう」
 苛々する? 何故?
 否、ママが子供を想うのは当たり前でしょう?
 子供が、ママを想い遣るのは当たり前でしょう?
 この娘は、何を、言う?
「ははは。うーん、マリッジブルーもあながち外れではないかもなぁ」と、あいりちゃんは困ったように笑いました、そして壁にかかった時計をちらりと見てから立ち上がりました。
「とにかく。親の子供への愛情を当たり前のものだと考えてちゃいけないんだなって、私は考えたのね」
 違う。違う。親の子供への愛情は無条件のものじゃないなんて認めない。
 違う。違う。こんな憎たらしい娘が、我儘な娘が、こんなに親について考えているなんて認めない。
「昔は自分も当然のようにそれを享受してたけど、それじゃいけないんだって」
 そんなこと言わないで。嫌。それがたくさんある正論の一つだなんて、私に認めさせないで。
「親に甘えて、親に拘ったまんまじゃダメなんだよね。親も子供も自立した、大人、にならないといけないんだよね」
 コンコン、とドアがノックされて部屋の扉が開きました。式場スタッフが顔を覗かせます。「ご新婦様。そろそろ、お時間ですのでスタンバイをお願いします」
「はーい」とあいりちゃんは答えて、いくらか混乱して椅子に座っているよしのちゃんの前に、跪きました。
「あいりちゃん、そんなことしたら、ドレスに皺ができちゃう…‥」
 ギュ、っとあいりちゃんはよしのちゃんの手を握りしめました。
「中学生くらいの時、貴女の話を聞かなくてごめんなさい。そのことを謝らなくてごめんなさい。」それから、あいりちゃんはよしのちゃんを抱きしめます。「いっぱい我儘言ってごめんなさい。良い子じゃなくてごめんなさ……い……」
 そう言った涙声のあいりちゃんからは、とうの昔に思い出せなくなっていた、よしのちゃんのママの匂いをしていました。そんな気がしました。
 そして、ようやく離れてニッコリと笑いかけたあいりちゃんはこう言うのです。
「二十五年間。育ててくれてありがとう、ママ」

***

 よしのちゃんは、この、熱いような冷たいような胸の奥のあぶくをぶつける相手を、失くしてしまいました。
 よしのちゃんの捨てたママを嫌うことも、できません。
 自分がしてもらいたかったことを我慢して、無理を感じながら、自分の子供にそれを全部してあげるあいりちゃんのママを、厭わしく思うことも、できません。
 親からの愛情を、当然のように甘受するあいりちゃんに嫉妬することも、できません。
 これから、このあぶくをよしのちゃんはどうすればよいのでしょう。
 よしのちゃんは窓を開けました。初夏の日差しは思った以上に強く、蒸し暑く粘っこい空気は気持ちが良いとはいえません。五十歳になった自分には、今の出来事も含めて我慢できるかかどうか分かりませんでした。
 外は式場の薔薇園で、華やかなパーティドレスを着た女の人達が笑いながらその中を通り抜け、チャペルに向かっていくのが見えました。
 くすくす。くすくす。くすくす。くすくす。くすくす。
 嫌、笑い声なんか聞きたくない。
 否、笑って祝ってやって欲しい。
 矛盾した気持ちを、どうすればいいのでしょう。
 ふと、窓のすぐ下を見てみました。暑さにやられたのか、ピンク色の小さな薔薇が、花びらの端を茶色にして萎れていました。その傍には、だらしなく花びらを開ききった真っ赤な真っ赤な大輪の薔薇。
 自分の都合でよしのちゃんを振りまわした。ママの色。
 ああ、そうか。
 よしのちゃんは窓を閉めました。外の湿気が、部屋の涼しさの中に紛れていきます。
 可愛らしい、ピンク色の家族ごっこは、初めから自己満足で無意味なものだったんだ。
 所詮、自分も。
 だらしない、真っ赤な色をしたママと同じ。我儘なママと同じだったんだ。
 なぁんだ。
 よしのちゃんは、ピンク色の唇を歪めて、ニコニコと嗤いました。
 近くの壁にかかった鏡をちらりと見ます。
 あいりちゃんのママ。歳をとった女が、力なく貼り付けたように嗤っているのが見えました。

***

「この仕事初めてから、結構長いんですけれど。やっぱり、ああいった場面に立ち会いますと、泣きそうになってしまいますねー」
 チャペルに向かう、あいりちゃんのドレスの裾を持ち上げながら、式場スタッフのお姉さんが言いました。そして人の良さそうな笑顔で、あいりちゃんの顔を見つめます。「まあ!大変。お化粧が少し崩れていらっしゃいますよ。ちょっと直させていただきますね」
「いやだ、さっき泣いたからかしら。すみませんお願いします」
 あいりちゃんは廊下にあった椅子を勧められ、腰掛けます。スタッフのお姉さんは、持っていた小さなコスメボックスから白粉や頬紅を取り出し、あいりちゃんの顔に覆いかぶさります。
「口紅も剥がれちゃってますねー。えーと、ピンク色のものは……」
「あ、ピンク色じゃないのでお願いします」
 あいりちゃんの言葉に、お姉さんはキョトンとした顔をしました。「え、でもピンク色の口紅してますよね?」
「いいんです。赤いものありますか?」
「ええ」
「なら、それでお願いします」と、あいりちゃんは天使のような笑顔で言いました。「私。ピンク色って大っ嫌いなんですよ」

 チャペルの扉の前に、あいりちゃんは立ちます。
 この先には、真っ赤な絨毯のバージンロードがある予定になっています。
 その傍らを歩くのは、花嫁のパパではなくママの予定になっているはずです。
 赤色を嫌って、滑稽なくらい、ピンク色に拘ったママ。
 私を可愛がるフリをして、その実、私を嫌っていたママ。
 もはや、私を嫌うことで心のバランスを保っていたママ。

 さっき、心にも無い、しおらしくて娘らしいセリフを言ってやったら、だいぶ混乱してたみたいだけど。大丈夫かしら、まぁ、大丈夫じゃなくするために言ってやったんだけどね。
 鐘が鳴り、オルガンの音が鳴り始めます。
 開きつつある扉を見て、あいりちゃんは足を一歩踏み出します。
 娘が、自分の嫌いな真っ赤な口紅をして現れたら、ママどんな顔をするのかしらね。

 真っ白いチャペルに踏み込もうとする花嫁さんは、知らず真っ赤な唇を歪めました。
 これからの生活への期待と、ママの驚く顔を思うだけで、不思議なことに嗤いが止まらないのです。
                
                                                                     了

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